おはなし
「しあわせ」
内藤昭文先生(本願寺派・司教/布教使)

世の中の人々で、「しあわせ」になりたくない人はいないでしょう。大半の人は、その「しあわせ」を「幸せ」と書くでしょう。でも、この表記は国語辞典にはありません。ただ、最近では、「幸せとも書く」と但し書きがある辞書もありますが。さて、「幸せ」の「幸」とは「海の幸・山の幸」などのように「恵み、恩寵(おんちょう)」を意味します。しかし、 人間はその山や海の恵みを恵みとして受け取らず、乱開発してきました。「幸多かれと祈る」の「幸」も「恵み」ではなく、人間の「望み(欲望)」の延長線上にあるものとなってしまっています。確かに、「幸」には「恵み」以外に、「こいねがふ」という欲望の意味があります。しかし、「むさぼる」をも意味します。「むさぼる」とは、三毒の煩悩の一つである「貪欲(貪:とんよく)」で、「足ることを知らない」ということです。そんな私たちが「しあわせ」を望んだとしても、むさぼり続けて、不平・不満ばかりこぼしてしまいます。自分の思い通りにいかず「愚癡(ぐち)」をこぼし、「憤り(瞋恚:しんに)」を感じるしかありません。そんな私たちに、「しあわせ」はあるのでしょうか。

一方、国語辞典に出てくる正しい日本語としての表記は「仕合せ」です。「仕」の意味には「めぐりあわせ」があり、それがピタッと「合」うことです。故・司馬遼太郎氏によれば、「仕合せ」の「仕」は「ある人につかえること」だそうです。自らの生命をかけて仕えるべきものに出会うことです。生きている中で、辛いこと・苦しいことなどがあったとしても、自分の「めぐりあわせ」、言いかえれば不思議な「出会い」がぴったり合う因縁を「仕合せ」というのです。出合いを「仕合せ」と思えないような生き方こそ、恵みを恵みとして受け取れない、「幸せ」だと言えない生き方なのです。私たちは人間としての命を恵まれたのです。しかし、生まれてきたことを当然のこととしてしか受けとってないのではないでしょうか。そこに、すでに恵みを恵みとして受けとれていない私がいます。そうだとすると、命の営みの中で、多くの恵みや出合いを気づかないまま、慶べないままでしかありません。さらに、生かされている「しあわせ」も生きている慶びもないのではと、思われてなりません。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、法然上人(ほうねんしょうにん)との出会いやご本願との出合いを「仕合せ」だと慶ばれました。ご存じのように親鸞聖人の生涯を見ると、我々の感覚からすれば、決して幸せであったとは言えないでしょう。幼い頃両親をなくされたり、流罪になったり、長男の善鸞(ぜんらん)を義絶(ぎぜつ:勘当の意)したりと、苦難の連続でした。しかし、親鸞聖人はその不幸を嘆くばかりではなく、慶びをもって力強く生き抜かれました。それはお釈迦さまが説かれた「人間の人生は苦難の連続である(一切皆苦:いっさいかいく)」であることを真正面から受けとめられ、その苦難の中で、法然上人と巡り会えたこと、そして何と言っても阿弥陀仏の御本願に値遇(ちぐう)できたことなどに、人間として生まれた不思議な因縁(いんねん)を慶び、仕合せだったのだと思います。それが、ぐぜいごうえんたしょうあしんじつじょうしんおっこうえああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。ぎょうしんえしゅくえんよろこたまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
(『註釈版聖典』131頁〜132頁)という言葉として表れているのだろうと味わっています。